千利休
千利休は1522年に堺でうまれました。生れた年がはっきりわかるものはないけれど、いろんなことをかんがえて1522年だろうといわれています。生れたときは与四郎というなまえでした。
千与四郎が北向道陳にお茶をおしえてもらうようになったのは、1538年17さいのときです。そして与四郎は道陳によって武野紹鴎にあうことができ、紹鴎にお茶をならうようになりました。それは19さいの1540年ごろです。この年に与四郎のお父さん田中与兵衛がなくなっています。そして与四郎ではなく、宗易というなまえをつかうようになったのもこの年です。1544年にはじめて千宗易というなまえでお茶会をひらいているのが『松屋久政茶会記』にかかれています。
1555年利休のお茶の先生であった武野紹鴎がなくなり、1562年にはさいしょにお茶をおしえてもらった、北向道陳がなくなりました。
1570年ごろに千宗易(利休)は、織田信長のそばで茶の湯のしごとをするようになりました。それが1575年ごろまでつづき、1582年に信長がなくなってから、こんどは豊臣秀吉のそばで茶の湯のしごとをするようになりました。秀吉がはじめてお茶会をひらいたときに、宗易がしゅっせきしていることが、お茶会があったときのことをかいている茶会記にかきのこされています。この秀吉のそばでしごとをしていたころ、利休は京都や大坂にいえや茶室をたくさんもっていました。1584年には大坂城に山里の茶室をつくり、はじめての山里の茶会をひらいています。利休が京都につくったさいしょの茶室が、大徳寺のもんのまえにつくられた不審庵です。
ところで秀吉はというと、1585年関白というくらいにつきました。そのときのお茶会で、利休は、秀吉が正親町天皇にお茶をさしあげるのをてつだっています。そして、このときに利休は、正親町天皇から「利休」というなまえをもらうのです。
このように利休は秀吉のそばでお茶のてつだいをしてきましたが、それだけでなく、政治のことなどもてつだってきました。それが秀吉にころされるげんいんにもなったようです。1589年に利休は大徳寺の門を大きな門につくりかえ、そこに木で自分のかたちをしたものをつくってかざりました。これがころされるげんいんになったのではないかともいわれています。はっきりしたことはわかりませんが、1591年に、利休は自分で死ななければならないようになりました。
このように利休は信長や秀吉のそばで茶の湯のおせわをしながら、村田珠光がはじめたわび茶をつくりあげていきました。わびとは、ことばで言いあらわすことができないような美しさです。きらきらした、はでな美しさではありません。日本にしかない美しさといってもいいのではないでしょうか。そこにはこころがあります。利休はものよりも心をたいせつにしました。とくに「もてなし」のこころとして「和敬清寂」ということばがあります。人と人がしんじあい、こころをやわらげておたがいにあいてをたいせつに思うことです。そしてもうひとつは人と人がであったときをたいせつにする「一期一会」ということばがあります。なんかい同じ人とあうことがあっても、そのときそのときでちがいがあります。だから、そのときをたいせつにするのです。利休が茶室を小さくしたのも、お茶にまねく人とまねかれる人のこころのふれあいができるようにです。戦国時代のようにたたかいばかりしているのではなく、お茶のせかいでは平和のこころをもって人とあうことがだいじなのです。それを利休はおしえてくれています。
参考文献
- 角山榮「現代につうじる利休のお茶」(『堺・泉州第5号』1998年 「堺・泉州」出版会)
- http://www.omotesenke.jp/chanoyu/3_1_4.html
- 村井康彦『千利休』2004年 講談社
- 芳賀幸四郎『千利休』昭和38年 吉川弘文館
- 海士光朗『茶の湯 歴史と精神』1999年 麻布文庫
- 谷端昭夫『よくわかる 茶道の精神』2007年 淡交社
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