茶の湯について

茶の湯以前

茶の木はインドや中国に元々あって、中国の四川省というところでお茶をつくって飲みはじめられるようになった。(1*p12)

紅茶も緑茶も同じ茶の木であるが、作り方がちがう。(9*p6)

2000年ほど前、日本では弥生時代とよばれる時代に、中国でお茶が飲み始められて中国の唐という時代になると、中国の都の長安ではお茶をのむ店がよくはやり、お寺ではお坊さんが修行する座禅のあい間にお茶を飲んでいたようだ。このように、お茶をのむことがはやっていた唐の時代の760年頃に、中国の陸羽という人が世界でも始めて、お茶の葉をつんでお茶を作る方法やお茶の入れ方、お茶の種類などを書いた『茶経』という本をあらわした。(1*p12)

永忠というお坊さんが中国に行って三十年ぐらいしてから、日本に帰ってくるときにお茶を持って帰り、平安時代の天皇たちに飲まれるようになったようだ。(9*p12)

詩をつくるときに、お茶や音楽(琴をひく)は、いい雰囲気をつくるためになくてはならないものであった。けれども嵯峨天皇が承和九(842)年になくなってからは、こうして詩を作りながら、または音楽をききながらゆったりとお茶を飲むようなことをしなくなった。そして室町時代までは、お茶は美しさとか雰囲気とかは関係なく飲む時代が続く。(9*p16)

「季御読経」における「引茶」で早くからお茶が飲まれていたということがわかる。「季御読経」は、聖武天皇のときにはじまった行事で、春と秋の二回、無事に暮らせる平和な国であるようにお祈りすることであり、その時に出されるお茶が「引茶」であった。(1*p23)

お茶はおもに、宮中でおこなわれる仏教の行事、特に春と秋に行われる季御読経の「引茶」で飲まれていた。(9*p31)
 *「引茶」は「ヒキチャ」とよんでもいいが、『西宮記』の一本(『史籍集覧本』)に「引茶」とふりがなをつけたものがあるように、熟語の場合は音よみした方がよいであろう。(9*p32)

「引茶」のことが、はっきりと本にあらわれるのは平安時代も中頃になってから、『西宮記』『江家次第』『時範記』などの本に(村井康彦『花と茶の世界』)一つのきまった作法があってお茶がのまれているから、あとの時代のお茶会のもとになる形の一つであるだろう。(1*p23)

嵯峨天皇の時代に、お茶をのむ記事がたくさんみられる。平安時代には身分の高い人たちがお茶をのむことが多かったようだ。(1*p25)

平安時代、まだ、わび茶にあたるものは見られない。しかし、ああしたい、こうしたいと悩んだり、あれがほしい、これがほしいとよくばったり、人と争ったりする事をさけて、静かな時間を過ごすためにお茶を飲んでいるのがあらわれている。それは後の茶の湯にもあらわれるようになる。(1*p31)

八世紀にできただろうと思われる『茶経』という本では、釜に湯を沸かして、茶の粉を入れ、泡立てたものをお茶碗に汲んで飲んでいたのがわかる。(1*p19)

中国の宋の時代の1107年から1110年に、中国の皇帝となった徽宗が書いた『大観茶論』という本では、今のお茶の点て方に似ていると思うところもある。(1*p19)

栄西が中国に行った宋の時代には、お茶の葉からお茶を作る方法や道具もきちんとできていたので、お茶のことがよくわかっていた時代だった。抹茶を入れる方法も決まっていて、栄西は日本にちゃんとした抹茶を飲む方法を持って帰って来たことになる。だからといって、すぐに抹茶を飲むことが広がったのではない。(1*p20)

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