茶の湯の特質
もともと抹茶を点てることは中国で始まったことなのに、中国では、今では抹茶を入れることをしなくなり、煎茶というお茶の葉を煮たものを飲んでいる。(9*p122)
なぜ日本では抹茶を飲むやり方がつづいてきたのか。それは14世紀から15世紀にかけて、お茶を飲むための日本風の座敷があらわれたときに、中国風から離れていき、抹茶を点てることは日本のものとなっていった。(9*p123)
禅宗のお坊さんで歌を作る人でもあった正徹という人が書いた『正徹物語』の中に、お茶が好きな人を「茶数寄(者)」(中国のお茶の道具をたくさん持っている人)、「茶呑み」(どこのお茶かお茶の味を知っている人)、「茶くらひ」(お茶については、なにもわからないけれどお茶をよく飲む人)の三つにわけている。(9*p124)
1400年の終り頃に、村田珠光が古市澄胤にあてた『心の文』に、日本のもの、中国のものとわけないで、うまく混ぜ合わせることが大事と書かれていて、日本のものでも美しいものがあることを言おうとしている。(9*p127)
銀閣寺を建てた足利義政は中国の道具をたくさん持っていたが、東山山荘(今の銀閣寺)の中には四畳半の小さな部屋をつくり、これが日本的な茶室につながっている。このことは中国のものと日本のものが混じりあうときだったことをあらわしている。(9*p133)
豊原統秋は町の中に「松下庵」をつくった。世の中のいやなことから逃げてひっそりと住む人は、ふつう山の中に住むものである。豊原統秋は、山に行っても心がすっきりしないときのために、町の中に静かに住む場所をつくった。(9*p138)そこには茶の湯をするための四畳半の座敷がある。(5*p81)
村田宗珠も京都の下京のにぎやかなところに、静かにお茶をのむための小さな家をつくっている。豊原統秋の「松下庵」と合わせて「市中の山居(里)」とよばれ、これらは京都だけではなく堺にもあらわれることが、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』に書かれている。(9*p140)
お茶の道具が中国のものから日本のものへ代わる時と、町の中に茶の湯のために建てた小さな家があらわれるのは同じころである。「庵」とよばれる茶の湯のための小さな家があらわれたのは、新しい茶の湯が生れたことをあらわしている。(9*p144)
16世紀の中頃天文時代に、お茶会があった場所、出席した人、使った道具の名などを書いた茶会記があらわされる。茶会記は『松屋会記』『天王寺屋会記』『今井宗久茶湯書抜』の三つがよく知られ、『松屋会記』が今でも残っている中では一番古い。この時代には、お茶に熱心な人が多く、お茶のルールやお茶の礼儀作法がきっちり出来ていた。またお金持ちの町人はお茶の道具をたくさん集めていた。それだから、お茶会をしたときにどんな道具を使ったか、その道具はどのような値打ちのあるものかを日記に書き残そうとした。(9*p151)
お茶会のようすを書いた『茶会記』には、お茶会では、お茶を飲んだ後に食事が出されていたということが書かれている。(9*p160)
今「一期一会」という言葉が使われているが、この言葉は、天正時代にできた『山上宗二記』にあるので、16世紀の中頃に言われるようになったことがわかる。このことばが茶の湯と関係あると知られるようになったのは、幕末の大名であり、茶人でもある井伊直弼の『茶湯一会集』に書かれていたからである。「お茶会に招待する人と招待される人が、何回同じ人であっても、その日と同じお茶会は二度とない。一生に一度だけの会であるから、お茶に招く側の人は、呼ばれた人がまた来たいと思うように気を使わないといけない」というようなことばである。(9*p169)
茶の湯の歴史の上で、天正年間(1573~92)は、堺の町から千利休をはじめ今井宗久・津田宗及らの有名な茶人が出て、織田信長・豊臣秀吉にお茶の名人として仕えた時代である。(9*p171)
好きなお茶碗や道具に、利休と秀吉またはほかの人とに違いが出てくる。このような美しさに対する考え方のちがいがあって、秀吉と利休がうまく行かないようになったのかもしれない。(9*p186)
利休のことばに「広い茶室はせまく、せまい茶室は広く使え」というのがある。お茶会は、お茶を点てる人と飲む人があってできるものである。利休が茶室を小さくしたのは、茶の湯に招く人が客の近くに座り心づかいしながら、その日のお茶会は、その日だけしかないお茶会であることを大事にしたかったのだろう。(9*p191)
また「茶の湯とはただ湯をわかして茶をのむだけではない」とも言っている。利休はかざらないふだんとふだんにない美しさをあらわそうという二つの反対にあるものを茶の湯であらわそうとした。それを深く考えたから、茶の湯は利休によってすばらしいものとしてできあがったといえるだろう。(9*p193)
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