茶の湯について

抹茶の伝来-鎌倉時代から室町時代

お茶を飲む様子は、平安時代の終りになって、それまでのように本などに書かれなくなる。お茶があまり飲まれなくなったからだろう。そのわけは、中国に使節を送ることをやめたこともあって、中国からお茶の事について伝わってこないこともある。日本では『吾妻鏡』という本に、今までのお茶の飲み方とはちがう、抹茶という新しいお茶の飲み方が初めてあらわれる。そこには1214年(建保二年)栄西が二度目に中国に行って帰ってきて、源実朝にお茶と『喫茶養生記』という本を差し上げたことが書かれている。(1*P32)

鎌倉時代に入って、新しく伝わった抹茶は、栄西が実朝にお茶といっしょに差し上げた『喫茶養生記』という本にみられるように、お茶は薬であると思われていた。それから五十年ぐらいたって、叡尊というお坊さんも、やはりお茶は薬と思って飲んでいることから、鎌倉時代の最初のほうのお茶は、薬として飲んでいたと言える。(1*P39)

お茶を薬と思って飲んでいたころ、中国の禅宗のお寺では、『禅苑清規』(1103年〔宋の崇寧二年〕序)が使われており、その中には、お茶の礼儀作法が書かれている。『禅苑清規』は毎日の生活のきまりとかが書かれていて、手本になる本である。(1*P40)

日本でも清規により、仏教の禅宗とお茶が深い関係をもつようになっていった。お茶に薬としての効き目をあてにすることはなくなり、お茶は心を休め、楽しんで飲むものと考えるようになっていった。(1*P40)

中国のお茶の道具が入ってきたのをきっかけに、お茶を飲む形が新しくなりつつあったけれども、南北朝時代には、まだはっきりとした姿をあらわしてはいない。薬として役立つものとだけとは思わなくなってはいたが、禅宗のお寺で、お茶を飲む方法はいろいろな方法が混じり合っていた。それがだんだんと一つのものにまとまっていって、室町時代の中頃には、はっきりと新しい形のお茶会があらわれるようになる。(1*P49)

1351年にできた絵巻『慕帰絵詞』では、『喫茶往来』に出てくるお茶会の様子よりは日本的になっているが、まだ客の前ではお茶を点てることはしないで、お茶は食事の前か後に出され、お茶を点てる順番も決まっていなかったようだ。(1*p51)

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