茶の湯の成立
茶の湯の形ができたのは、義政がなくなってからである。
応仁の乱のあとで町人らにより、茶の湯(わび茶)ができたといえる。(5*p84)
茶の湯を芸能化することで完成することができた。ここでいう芸能は今の芸能人とかいうような意味とはちがう。(4*p97)
お茶で言う芸能とはどんな意味かというと、人が見ていないところでお茶を入れたり、飲んだりするのではなく、お茶を入れる人も飲む人も同じ茶室の中にいる。茶室という舞台に道具を飾り、お茶を点てる人は気持ちよくお客さんを迎えるために気を引き締め、美しい心と姿で礼儀作法を守ってお茶を点てる。このようなことがきっちり出来たときに、落ち着いた美しさを持つ「わび茶」という茶の湯が生れる。これがお茶でいう芸能化であり、ただお茶を飲むだけでは茶の湯にはならない。(4*p98)
『喫茶往来』という本に、中国の方法で、椅子に座って茶をもてなしたり茶をいただいたりしていたが、室町時代のはじめには、疊の上に座るようになって、「茶の湯」ができたといえると書かれている。また、部屋にまだ床の間が作られていないときは、部屋に中国の置物をかざったり、中国のお茶の道具を使うことが、お茶に熱心な人がすることであったとも書いてある。(9*p84)
人々が集まって話をしたり、料理を食べたりする会所というところは、今までは、ほかのことをする部屋と同じ建物であったが、義満が住んでいたところでは、ほかの建物の中ではなく別の一つの建物としての会所があらわれる。このような会所がふえ、茶の湯もこの書院づくりの会所でおこなわれるようになり、一つの茶の湯の形が決められていった。(9*p93)
室町時代中頃には、人々が集まって和歌の会をひらいたりする会所というところに中国のお茶の道具をかざってお茶を飲んでいた。このようにしてお茶を飲むことは、同朋衆たちが決めたことである。(1*P58)
同朋衆は室町時代に幕府の近くに住み、使い走り、茶の湯のための仕事、和歌の会に出席するなど色々な仕事をする人のことであり、有名な人には能阿弥・芸阿弥・相阿弥がいる。(9*p112)
室町時代には、珠光がはじめたわび茶と、将軍のそばで仕事をする人たちが大きな役目をはたした会所のお茶と、お寺の前にあるお茶を売る店で飲むお茶があり、いくつかのお茶の飲み方があったということができるだろう。(1*P58)
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