教育

私たちのまち堺

歴史

1. 原始時代

堺に人々が住み始めたのは、今から約2万年以上も前のことである。南花田遺跡、鈴の宮遺跡、野々井遺跡などから、石で作られたナイフがみつかっている。(14*p16)

石津川に沿ったところから、土を焼いて作った深い鉢などが出て来た。これは、今から約1万年前の縄文時代につかっていたもので、縄文土器とよばれ、なわをあんだもようがある。(14*p16)

今から約2300年前に中国から稲をつくることがつたわってきた。堺市内では弥生時代に稲を作っていたあとが、今の浜寺中学のあたりに発見されている。これを四ツ池遺跡という。(14*p16)

稲を作ることが早くに四ツ池のむらに伝わったのは、縄文時代から村に500人ほどの人々が住んでいたことと、もうひとつは、稲を作る水が手に入りやすかったからだ。(14*p16)

四ツ池のむらはだんだん大きくなり、むらのまわりなどに新しいむらをつくって稲をうえてそだてた。(14*p17)

弥生時代、むらにみんなをまとめる力のある人が出て来て、むらとむらが水や稲を作る土地をとりあいするようになった。この時代につかわれていた「銅鐸」(銅でできたつりがねのようなもの)が、堺市内の5か所で発見されている。銅鐸は力があることをあらわしたり、むらのまつりにつかわれたとかんがえられる(14*p17)

むらとむらがあらそって、まけたほうが勝ったほうにしたがうようになり、弥生時代のおわりごろになると、石津川のそばにむらよりもっとひろく、たくさんの人々が住むひとつのあつまりができた。それがちいさな「くに」になったと考えられている。(14*p17)

2. 古墳時代

古墳は、堺市には4世紀の終りごろからつくられはじめた。大仙の古墳は一番大きく、かたちは前方後円墳というかたちをしている。(14*p18)

古墳時代には泉北のほうに、陶邑とよばれる土を焼いてお茶碗のようなものなどをつくるところがあった。その焼いたものを須恵器といい、須恵器を焼いたかまのあとは1000以上あるといわれ、平安時代までは日本で一番大きい須恵器を作るところだったようである。堺には「陶荒田神社」「陶器川」「陶器山」「釜室」など、須恵器にかかわる地名が多く残っている。泉ヶ丘の駅の近くにある泉北考古資料館の横には須恵器を焼いた釜のあとがある。(14*p18)

3. 奈良時代から平安時代

「さかい」とよぶようになったのは、律令制時代にできた摂津国と河内国、和泉国の三つの国のさかいであったからで、三国ヶ丘のなまえもそこからきている。(14*p20)

律令制時代にきめられた土地の名前が今でも残っているのには、湊、神石、金岡、五個荘、百舌鳥、深井、船尾、鳳、津久野、八田荘などがある。(14*p20)

奈良時代にできた『日本書紀』という本に、堺から飛鳥への道があったことが書かれている。榎小学校をとおり二上山の北側の竹内峠をこえていた道で、竹内街道とよばれるようになった。(14*p20)

4. 中世の堺

小さなみなとであった堺は、南北朝の時代には、南朝と北朝がとりあいするほどたいせつなみなとになった。南北朝のあらそいがおわってまもなく、足利義満が堺にいた大内氏をせめたとき、堺の町の一万戸の家がやかれたといわれている。1467年に応仁の乱がはじまると、堺のみなとは貿易がさかんになり、堺から中国の明への使いをのせた船が出るようになった。船を送るのはたくさんのお金がかかるが、明から輸入した生糸や陶磁器で堺の商人は、それよりもっとたくさんのお金をもうけることができた。(14*p22)

1543年に日本に鉄砲がつたわると、「南蛮船」とよばれるポルトガルの船が日本に来るようになった。多くの南蛮船は九州の平戸や長崎にきたので、堺の商人もそこで貿易をするようになった。(14*p23)

中世の堺は、町衆(会合衆)とよばれる力のある商人たちがはなしあって、堺のまちをおさめていた。まちのまわりに堀をつくり、その中で平和で安全なくらしをしていたようである。(14*p24)

織田信長は堺にはお金があると目をつけ、戦争をするためのお金を出すように命令したが、町衆はこれをことわり、もっと堀をふかくして外からせめられないようにした。次の年、信長は堺につかいをおくって、堺の町をやきはらい、みんなの首をはねるといってきた。それで、堺は戦争の準備をすることをやめ、信長のいうことをきくことにした。(14*p25)

1591年千利休が死ぬ。(14*年表)

5. 江戸時代の堺

1615年徳川家康が豊臣氏に勝った大坂夏の陣のときに、堺の町はやけたが、徳川家康は堺の町をつくりなおすことにした。これを元和の町割という。この町割によって、たてとよこに直角にまじわる東西と南北に通るみちをつくった。(14*p26)

江戸幕府は堺の町を支配するために、堺町奉行をおいた。町奉行というのは、今の市長のような仕事や警察署長・裁判長・税務署長のような仕事もしていた。この奉行所の北側が西屋敷、今の西半分ぐらいが東屋敷といって奉行所の役人が住んでいた。(14*p26)

1704年大和川が今まで流れていたところからちがう方にながれるようにした。川の水が海にながれるところには、土や砂がたまり新しく田ができた。このような田では、たばこ・だいこん・わた・やまいも・あわ・ひえ・きび・むぎ・そば・さつまいも・なたねなどがうえられた。(14*p28)

江戸時代の堺でつくられていたもので有名なものには、てっぽう、だんつう(厚く織ったしきもの)、さらしなどがある。(14*p28)

6. 明治時代

明治時代になって、藩がなくなり、1868年堺県ができた。このとき堺は、大小路から北は大阪府、南は堺県とわかれていたが、次の年には大和川より南は全部堺県となった。その後河内藩や岸和田県、さらに1876年には奈良県も堺県のなかに入った。1881年に堺県は大阪府の中に入り、1887年には、奈良県が大阪府ではなくなった。(14*p30)

1889年、東京・大阪・京都など全国で35の市ができ、堺も市になった。そのときはおもに土居川にかこまれたところだけであったが、1894年には、まわりのまちやむらが堺市に入ってきた。(14*p30)

1872年に今の小学校につながる「小学」ができたが、家の手伝いがいそがしかったり、学校での勉強がくらしにすぐにやくにたたなかったり、学校にはらうお金がたかかったりして行く人はすくなかった。(14*p30)

江戸時代からうけつがれている、はもの・さらし・せんこう・だんつうをつくることと、明治になってからは自転車・れんがをつくることもさかんになった。堺に住む人たちのかずもおおくなり、市のはんいもひろくなって、今の南海本線や南海高野線、阪堺線などができべんりになった。(14*p32)

7. 昭和時代以後

1941年の太平洋戦争で堺のまちに爆弾が落とされて1800人あまりの人々がなくなった。1946年から大阪府が堺をもとどおりにしようと計画をたて、今では工場もたくさんできてにぎやかになった。(14*p35-36)

1965年には市民会館ができ、1980年に堺市博物館ができる。2006年堺市は政令指定都市となる。(14*年表など)

堺に関係ある有名な人

行基
668年堺の家原でうまれた。貧しい農民をすくうために、田や畑に水をおくるための池をつくった。また食べるものがなかったり、病気だったりして道でたおれている人をたすけるために病院をつくった。お寺もたくさんたてて仏教をひろめた。このような行基に聖武天皇は大仏をたてるために力をかしてほしいとたのみ、大僧正という位をおくった。(14*p21)
納屋助左衛門
1544年に生まれた堺の商人。フィリピンのルソン島まで行って貿易をし、1593年にルソンから持って帰ったつぼなどを、秀吉におくったりして大変お金持ちになった。あまりにもぜいたくなくらしをしていたので秀吉はおこり、1607年に日本をはなれ、カンボジアへ行った。(14*p23)
フランシスコ・ザビエル
1550年に堺に来て、今のザビエル公園のところにあった日比屋了慶という商人の家に住んだ。その後京都に行きキリスト教を広めようとしたが、だれも聞こうとしなかったので、また堺に帰ってきた。ここで病気になり、一ヶ月了慶の家で病気をなおすためからだを休めたあと、九州の平戸へ行った。(14*p23)
千利休
1522年堺の商人の家に生れた。奈良時代に中国から伝えられたお茶は、はじめはくすりとしてつかわれていたようである。これを「わび茶」としてつくりあげたのが利休である。利休は毎日生活する場所とちがうところに茶室をつくり、お茶に使う道具についても日本の落ち着いた感じのするものを使った。利休は、信長、秀吉につかえたが、やがて秀吉とあわなくなり、切腹させられた。(14*p25)
与謝野晶子
1878年堺の甲斐町で生れた。与謝野鉄幹が中心になってつくられた『明星』に歌を発表し、1901年には『みだれ髪』という歌集をつくった。(14*p31)

参考文献

  • 14. *堺市立中学校教育研究会社会学部会編『わたしたちの堺』平成18年4月38版 堺市教育委員会

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