教育

わび茶と堺

堺の町は、1467年に応仁の乱がおこったころ、京都のたくさんの人々が戦争からにげるために奈良や堺に引っ越してきた。堺は商売がしやすかったし、芸能人たちにとっても居心地のよい町だった。それだから、人が集まって堺はにぎやかになり、さかえていった。(5*上p262)

紹鴎は歌の道に熱心であった。歌の会があるときには茶の湯もついていた。茶の湯がわび茶の形へとすすんでいたころであり、連歌と茶の湯は切り離せないものになっていた。紹鴎も有名な連歌を作る人たちといっしょに歌をつくっていたから、茶の湯のことをもっと知りたいと思う気持ちをもつようになった。そこで茶の湯に熱心になっていった。(5*上p268)

紹鴎が茶の湯に熱心になりだした天文年間(1532から1555年)は、町の人たちは自分たちで町の政治をおこない、町が栄え、はなやかな時代であった。そんななかで、わび茶を楽しみとする人が大勢出て来た。(4*p119)

わび茶ができると、茶の湯が京都から堺に移ってきた。堺にはむかし港があって、室町時代には中国の明に使いの人を出す船が、堺の港から出て行ったり、帰ってきたりした。堺の商人たちは、日本と明の貿易につながりをもって、だんだんとお金持ちになっていった。(1*p79-80)

室町時代に、堺は船で物を運ぶ仕事や、外国と貿易をして発展していった。このような堺の発展をリードしたのは会合衆という町人の代表の集まりであった。会合衆は町の政治をすすめ、自分たちで堺の平和を守っていた。(1*p80p82)(5*上p260)

堺の町に住んでいる人は、商人だけではなく、武士や僧などいろんな人がまじっていた。その人たちがおつきあいする場がお茶会だった。そして町の文化がさかんになりお茶に熱心な人たちが出て来てわび茶をつくりあげる。(5*上p142 上p258)

紹鴎のようにお金があって大きな商売をする堺の人たちの茶の湯は、商売の話などお互いに自分が知っていることをほかの人に教え、ほかの人たちが知っていることを教えてもらうような話し合いをする場であったにちがいない。(3*p223)

利休没後の茶

利休がなくなってからは、細川三斎・古田織部・利休の子や孫(千少庵・道安ら)・織田有楽・上田宗箇らが茶の湯をリードしていった。(1*p126)

古田織部は信長や秀吉に仕えた武士であり、千利休がなくなる前の10年間、利休に茶の湯を教えてもらっていた。織部のお茶は武士の世界ではよいと思われていたが、長続きしなかった。織部が死んでからは、小堀遠州・千宗旦(利休の孫)・金森宗和らが茶の湯をさかんにしていった。(1*p128 p134)

参考文献

  1. *谷端昭夫『よくわかる茶道の歴史』2007年 淡交社
  2. *http//www.omotesenke.jp/chanoyu/nenpyo/nenpyou_el_i.html
  3. *神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店
  4. *熊倉功夫『茶の湯の歴史千利休まで』1990年 朝日新聞社
  5. *永島福太郎『茶道文化論集』1982年 淡交社
  6. *成川武夫『千利休 茶の美学』1983年 玉川大学出版部
  7. *亀井高孝・三上次男・林健太郎・堀米庸三編『世界史年表・地図』 2007年13版 吉川弘文館
  8. *児玉幸多編『日本史年表・地図』2007年13版 吉川弘文館
  9. *村井康彦『茶の文化史』1979年 岩波書店

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