教育

歴史

織田信長の時代から家康の時代までの歴史について

1. 織田信長の時代

 1400年のおわりごろから、1500年だいにかけて、日本の国ではみんなに自分こそいちばん力があるのだと知ってもらえるように、たたかいがくりかえされていました。

 そのようなときに、ヨーロッパでは1492年にイタリア人のコロンブス、1498年にポルトガル人のヴァスコ=ダ=ガマ、1500年はじめにはポルトガル人マゼランが、ふねでせかいの国へ行く道をはっけんしました。このじだいを大航海時代といいます。

 1543年にポルトガル人をのせた中国のふねが、九州の南の種子島につきました。これが日本に、いちばんはじめにきたヨーロッパ人です。そして、このときに種子島時尭という人が、ヨーロッパ人がもっていた鉄砲(火縄銃)を買って、けらいに鉄砲のつかい方やつくり方をならわせました。堺の商人も種子島へ行き鉄砲のつくり方を勉強したといわれています。このあとも、これをきっかけにして、ポルトガル人やスペイン人が九州にやってきて、日本としなものを売ったり買ったりする貿易をはじめるようになりました。このときの日本では、ポルトガル人やスペイン人を南蛮人、そのふねを南蛮船とよび、南蛮人との貿易を南蛮貿易とよんでいました。

 1549年にはフランシスコ=ザビエルがキリスト教をひろめようと日本にやってきました。ザビエルのあと、ガスパル=ヴィレラやルイス=フロイスらもキリスト教をひろめるために日本に来ています。 1560年、織田信長は、自分がいちばん上に立ち、日本の国を自分のおもいどおりにうごかしたいとおもうようになり、今川義元とたたかって織田信長がかちました。これを桶狭間の戦いといいます。 1568年京都へいった信長は、堺などにたたかうためのおかねを出すようにめいれいしました。堺はおかねを出すことにはんたいするのですが、信長にかつことはむりだとおもい、信長にしたがうことにしました。 1570年には、織田信長は浅井長政と朝倉義景がいっしょになった軍とたたかい、このたたかいにも織田信長はかちました。このたたかいを姉川の戦いといいます。このつぎの年に、姉川の戦いで、浅井・朝倉に力をかした延暦寺はやかれてなくなってしまいます。 1573年、将軍としての権力をとりもどそうとした足利義昭を、信長は京都から追い出してしまいます。これで室町幕府はほろびることになりました。

1575年、信長は、また、たたかいをおこします。武田信玄の子の武田勝頼とのたたかいで長篠の合戦といいます。このたたかいにも信長はかって、つぎの年には今の滋賀県である近江に安土城をつくりはじめました。安土城ができると、1577年に楽市・楽座令といって、お城のまわりのまちがにぎやかになるように、あたらしい商人が自由にはいってくることができるようにしました。 このように信長はいろんな人とのたたかいにかって、安土城をつくったのですが、いちばん大きな敵は石山本願寺を中心にした一向一揆でした。いま浄土真宗といわれる、一向宗のお坊さんたちが信長とたたかったのです。これを石山本願寺攻めといい、このときも信長はかって、近畿・東海・北陸地方を信長のおもいどおりにうごかすことができるようになりました。けれども1582年に、けらいの明智光秀が信長のいうことをきかなくなり、信長はたたかいにまけて京都の本能寺でなくなります。これを本能寺の変といいます。

2. 豊臣秀吉の時代

織田信長のあとにでてきたのが1537年に生れた豊臣秀吉です。秀吉は、はじめは木下藤吉郎というなまえで、信長につかえていました。信長が室町幕府をほろぼした1573年に木下から羽柴にかわりました。羽柴秀吉は、1582年山崎の合戦というたたかいで明智光秀にかち、信長のあとをつぐのは自分であるといって出ました。1583年には賤ケ岳のたたかいで柴田勝家にかち、石山の本願寺があったところに大坂城をつくりはじめます。1584年にまた秀吉は、小牧・長久手のたたかいをおこし、織田信雄(織田信長の子)・徳川家康の軍とたたかいましたが、なかなおりしました。1585年には、秀吉は小牧・長久手のたたかいのときに、徳川にみかたした和歌山の根来・雑賀のひとたちや四国のひとたちをしたがわせ、関白というくらいにつきました。関白になった秀吉は、1586年羽柴にかわって豊臣という姓をもらい、豊臣秀吉となりました。

1587年には秀吉はたたかいをやめましょうとみんなによびかけましたが、秀吉のいうことをきかない人もいました。1590年には、秀吉のめいれいをきかなかった北条氏政をほろぼし、日本の国をひとつにまとめていきました。秀吉の政治でしたことには、検地や刀狩、人ばらい令があります。村ごとに田や畑のひろさをはかり、上・中・下・下々というようにきめて、年貢のお米をおさめさすようにしました。これを太閤検地といいます。また、秀吉は農民から刀をとりあげる刀狩令を1588年に出しました。1591年には、人ばらい令を出して、武士につかわれている人・町人・農民にわけて、それぞれの家のかずや人のかずをしらべ、それによって身分がきまるということをしました。

このようにして、日本を一つにまとめた秀吉は、1592年には、朝鮮までも日本のものにしようとしました。そのたたかいを文禄の役といいます。1597年にも、もういちど朝鮮とのたたかいをおこします。それは慶長の役とよばれるものです。日本の兵が朝鮮でたたかっている1598年に、秀吉がびょうきのためになくなり、たたかいはおわります。

3. 徳川家康の時代

秀吉がなくなると、1600年に、徳川家康は豊臣氏をたすけてきた人たちとのたたかいをおこします。それが関ケ原のたたかいです。またこの年に、オランダの船リーフデ号が九州にやってきました。

1603年たたかいにかった徳川家康は江戸に幕府をひらき、幕府の中心となってしごとをする征夷大将軍になりました。その後1605年には、家康は征夷大将軍を子の徳川秀忠にゆずるのですが、ほんとうに力があったのは家康でした。 このころの貿易では、1604年幕府は糸割符制度をつくりました。糸割符とは、とくべつにきめられた商人があつまって糸割符なかまをつくり、生糸をまとめて外国から買い、なかまにわけることです。また1609年にはオランダとの貿易をはじめ、1613年にはイギリスとも貿易をはじめるようになりました。

1614年豊臣秀頼(秀吉の子)が、まだ大坂城にすんでいたので、家康は大坂城をせめました。これが大坂冬の陣といわれるたたかいです。1615年に、もういちど家康は大坂城の豊臣氏とたたかいました。それが大坂夏の陣です。この年に家康がかって、たたかいはおわり、世の中は平和な時代となりました。幕府はたたかいのあと、大名がすむお城は一つだけという一国一城令を出しました。また武家諸法度というのをきめて、幕府と大名たちの関係をはっきりさせました。

 1616年家康がなくなり、家康の時代はおわることになります。

参考文献

  • 五味文彦・高埜利彦・鳥海靖編『詳説日本史研究』1998年 山川出版社

このウィンドウを閉じる