学ぼう

もてなしとしての茶

大勢の人が集まってお茶をのみ、どこでとれたお茶かをあてるゲームをするのは面白いかもしれない。けれども賞品をもらうために競争するだけでは、みんなはあきてしまう。一般の人たちは、お寺の前の茶店や町の中で立ち売りしている一服一銭といわれるお茶を飲んで心を休め、武士の家では心をつくしてお茶を飲んでもらおうとする習慣がはじまってくる。このようにゲームでお茶を飲むのとはちがって、新しい茶の湯の時代がはじまろうとしている。(4*p84)

一般の人たちのあいだで広まっていたお茶は、お茶をのむ座敷をかざったり、形にこだわったりしなかった。それは1400年ころの一服一銭という立ち売りのお茶であった。(4*p85)

茶店や一服一銭で売られているお茶は上等ではないお茶だった。こうした上等でないそまつなお茶は「ひくず」とよばれ、上等のお茶は「そそり」とよばれていた。(4*p87)(5*下p69)

一般の人たちの間で、一服一銭のようなお茶が広がっている一方で、大名のようにくらいの高い人が家来の家に行ったときに、家来の家では大名を迎えるためのいろいろな決まった礼儀作法があった。その中の一つがお茶を出すことである。そのときにお茶を出す場所は書院づくりであった。(4*p90・p91)

書院づくりとはどのような建物のことかというと、14世紀から15世紀になるころ(南北朝の時代から室町時代に入るころ)、書院づくりという新しい建物の形が生れてくる。その形は、前のほうに三つの部屋、そのうしろに三つの部屋があり、合わせて六つの部屋がつくられ、部屋の形は12畳敷きとか18畳敷きといわれる正方形に近いかたちであった。その中心となるへやに作られていたのが押板、付書院、違棚などの棚である。このような三つの飾り棚には大切な意味があり、この飾り棚をつかって部屋をかざることの中に茶の湯もあらわれてくる。(4*p92)

大名のような身分の高い人が、家来の家をおとずれる「御成」という行事には、決められた規則やしきたりがあった。食事のあとにお茶を出すこともそのなかに決められていた。そしてそれが、新しい茶の湯を生むことになった。(4*p93)

〈茶に学ぶ「もてなしの心」〉

今は、主婦が家庭をはなれて仕事をもつようになり、家庭で家族全員がそろってお茶をのみ、食事をすることが少なくなった。家族がバラバラになると心がさびしくなる。お茶の心である一期一会と和敬清寂の心、やさしい言い方にすると、人と会ったそのときを大事にし、その人を大切に思う心があれば、人と人のあいだに信頼できるつながりができて、さびしいと思わなくなる。(10*p137)

日本のレストランでは、お店の人が「いらっしゃいませ」といって、おじぎをしてお茶を出してくれる。これは利休のお茶の中心になっている「一期一会」と「和敬清寂」の心、お店で言えば、お店の人がお客さんを大事にする心と、お店の人のお客さんに対するあたたかい気持のあらわれである。そこにはお茶の「もてなし」という礼儀作法が生きつづけている。(10*p204)

日本では、ふだんお客さんが来ると「よくいらっしゃいました」と心をこめてお茶を出してお客さんを迎える。こんなときにもてなしの形がいちばんよくあらわれている。(10*p208)

ただお茶を出すのではなく、お茶を出す心が相手にとどくような「ふれあい」が大切である。「ふれあい」をつうじてお互いの心が通い、そうして心がうちとけて話がはずむなかで、お互いに信じあえる関係ができあがる。(10*p209)

参考文献

  1. *谷端昭夫『よくわかる茶道の歴史』2007年 淡交社
  2. *http//www.omotesenke.jp/chanoyu/nenpyo/nenpyou_el_i.html
  3. *神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店
  4. *熊倉功夫『茶の湯の歴史千利休まで』1990年 朝日新聞社
  5. *永島福太郎『茶道文化論集』1982年 淡交社
  6. *成川武夫『千利休 茶の美学』1983年 玉川大学出版部
  7. *亀井高孝・三上次男・林健太郎・堀米庸三編『世界史年表・地図』2007年13版 吉川弘文館
  8. *児玉幸多編『日本史年表・地図』2007年13版 吉川弘文館
  9. *村井康彦『茶の文化史』1979年 岩波書店
  10. *角山榮『茶ともてなしの文化』2005年 NTT出版

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