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わび茶

【わび】
「わび」ということばは、すでに『万葉集』にもあらわれる古いことばです。
「わび」と同じようなことばに「さび」「冷え枯れる」「やつし」などのことばがあります。
日本人が美しさをあらわすときに「わび」ということばをつかうことがあります。
「わび」は、もともとやりきれない気持をあらわすことばだったものが、欲をすてて、山奥でひっそりとくらしている人が感じるようなことをあらわすことばに変わっていきました。
【すき(数寄)】
茶の湯に出てくる「すき(数寄)」ということばは、もとの意味は「好き」です。この人を好きになることを意味していたのが、やがて詩やうたをつくったり、音楽をきいたりして楽しむ「すき」にかわっていく中で、「好き」の文字にかわって「数寄」の字があてられるようになったそうです。
ほかの人から見れば、かわっているなあ、と思われるほど好きなのが「数寄」ということばであらわされています
それから7、80年のちには、数寄といえば茶の湯だけをさし、しかも茶の湯のなかでもわび茶という茶の湯をさすようになりました。

桃山時代のわび茶は東山時代の茶を新しくした、数寄とよばれる茶の湯が流行した。(4*p141)

〈村田珠光のわび茶〉

わび茶をはじめた人は、村田珠光といわれている。わび茶の前におこなわれていた茶の湯は、はなやかな中国の茶の道具をつかい、一般の人よりくらいの高い人たちの間でおこなうようなものであった。珠光はこの茶風をもとにしつつも、その中にはじめてかざりけがなく、自然で庶民的な日本の茶道具をつかい、また、はじめて4畳半の茶ざしきをつくった。こうして珠光はわび茶を形作っていったのである。(6*p4)

珠光は能阿弥に茶を学び、足利義政の茶の湯ともかかわり、大徳寺の一休宗純に禅を学んだ。(1*p62)

珠光が生まれ育った奈良には、早くから淋汗茶の湯とよばれるものがあった。それは風呂に入り、湯あがりのいい気分になったところで、お茶をのんで産地をあてる闘茶会というゲームをはじめるといったものであった。(6*p6)

この淋汗茶の湯をさかんにおこなったのは古市一族であった。(6*p6)

『君台観左右帳記』という書から珠光と能阿弥との出会いがわかり、能阿弥との出会いにより、珠光はわび茶を始める前の書院の茶の湯のやりかたをくわしく知ることができたようである。(6*p9)

珠光という人間をつくっていくのに大きな影響をあたえたと考えられる、もう一人の人に一休宗純がいる。利休の一番の弟子、山上宗二があらわした『山上宗二記』によると、珠光は一休に禅を学び、圜悟(中国南宋の禅僧で『碧巌録』をあらわした人)が書いた掛物をあたえられ、茶室かざりの一種として楽しんだとある。(6*p9)

珠光がはじめたわび茶とはどのようなものであったかを知るのに、珠光が弟子の古市播磨法師にあてたといわれる『心の文』とよばれる茶の湯を伝える書がある。(6*p11)

『心の文』が一番伝えようとしていることは、はじまりの文で「茶の湯の道で一ばん悪いことは他人を馬鹿にしたり、自分中心であることである。自分よりすぐれた人をねたんだり、習いはじめの人を馬鹿にしたりすることはあってはならない。上手な人には自分のほうから近づいて教えをうけ、はじめて習う人に対してはしんせつに教えてあげなければならない」と書かれているように、茶人という者の、ほかの人にたいする心がまえが書かれている。(6*p12)(4*p109)

もうひとつ、珠光は『心の文』で、「茶の湯をおこなうのに日本的なものと中国的なものがうまく交じり合って両方の差別をなくし、一つのものとすることが大事である」こと、また、「冷え枯れる」という言葉であらわされるような、「かざりけがなく静かな心を持った人でなければ、日本の深いあじわいがある茶の道具にかかわったり使ったりしてはいけない」ことを書きあらわしている。(1*p64)

古市播磨に中世的なより合いの茶から心の茶へすすめる文章が『心の文』であったともいえよう。(4*p115)

この時期の様子や珠光が古市澄胤にあてた手紙からも知られるように、珠光の茶は能や連歌の影響を強く受けて作り出していったようだ。(1*p67)

珠光がなくなって10年ぐらいたったころ、能楽金春座の禅鳳という人が、珠光は、明るい月がまん丸くむき出しになっているよりも、雲がかかったの月の方が心がひかれるといっているのはおもしろい見方であると言っている。(6*p25)

珠光が考え出した茶の湯のための四畳半座敷が作られたことは、茶の湯の歴史において新しいできごとである。(6*p29)

珠光は「よき道具」について、「ひえかるる」「たけくらむ」などのことばをつかっている。珠光はこれらのことばによって、彼が新しく茶道具として使うようになった物の美しさを言いあらわそうとしている。(6*p34)

こうしたことばは、いずれも心敬の連歌の世界の特徴をあらわすことばであり、珠光がきりひらいた新しい茶の湯は、のちに紹鴎によって「わび」といわれるようになった。(6*p34)

珠光がはじめたわび茶は、人間の心のありかたを深く考えることにかかわるものであった。それは美しさをあらわすとともに道徳的に行動することや仏の道を修行するようなものであった。茶道としての茶の湯、すなわちわび茶のもとを作ったといえる。(6*p45)

〈紹鴎のわび茶〉

珠光がなくなったあと村田宗珠が珠光の茶の湯のやりかたをつづけ、それが下京茶の湯とよばれ、また今までの茶の湯とはちがう“数寄”の名でよばれていた。珠光の茶はだんだんひろまっていき、京都では十四屋宗悟、松本珠報などの人々が活躍した。やがて堺にも、珠光が作り出した茶が広がり、その中から武野紹鴎が登場する。(4*p116)

紹鴎は1502年に生まれ、まだ唐物を中心にした道具を使っていたそれまでの茶の湯の内に、和歌(連歌)にあらわれる心を取り入れたといえるだろう。これによって、茶の湯は和風化していったと考えられる。(1*p75)

紹鴎は、30歳のころまでは連歌師であったが、実隆から藤原定家の歌をつくる心を学び、茶の湯の道をさとり茶に打ち込むようになった。(6*p53)

実隆がなくなった天文六年(1537)よりあとに堺に帰り、わび茶人として活躍するのだった。(6*p56)

紹鴎が堺にひきあげた時は不明であるが、41歳のとき堺で茶会をひらいた記録がある。すなわち、『久政茶会記』の天文十一年(1542)四月三日の茶会であるが、それによると、奈良の松屋久政が又五郎と少清の三人で紹鴎に招かれている。(6*p58)

天文二十四年十月、紹鴎が54歳のとき最後の茶会が開かれている。そのときには中国のものではなく、定家の色紙をかけているのは日本風になってきたあらわれである。 (6*p62)

わびは、もともと文学作品において使われていたことばだが、茶の湯で使われるようになったのは紹鴎がはじめてである。弟子の利休にあてた『わびの文』で茶の湯が持っている雰囲気や、茶の湯をおこなうときの心の持ち方を「わび」ということばでいいあらわしている。これは最初に「わび」という言葉で言いあらわした書であるともみなされる。(6*p67)

〈利休のわび茶〉

千利休は1522年堺で生れる。北向道陳や武野紹鴎らに茶の湯を学び、大林宗套らに禅を学んでいる。ただ若い日の利休は茶会には「善好香炉」や「珠光茶碗」などを使い、能阿弥流の茶会を思わせる茶の湯であり、後の利休の茶の湯にみられる姿はあらわれていない。修行時代だったといえる。
 1575年頃おそらく津田宗及との関係もあって信長につかえることになる。信長のもとで茶頭をつとめた利休の立場は、そのまま秀吉に引き継がれる。はじめは秀吉より立場が上だったようだ。(1*p112-113)

堺がおとろえ、博多の地位があがってきたにもかかわらず、利休は秀吉が政治をおこなうなかで、ほかの堺の人たちに比べられないほど上の立場にいた。それは秀吉の政権の中で茶の湯を中心として生きようとする強い決心があったからだろう。(1*p115)

これより前から、利休は茶の湯の草体化に取り組みはじめていた。そのはじめは、おそらく茶室を変えることであったろう。それまで四畳半・三畳台目が多かったのに対して、1582年ころ、二畳敷きの茶室を作り出したのである。(1*p115)

茶の道具においても、わび茶のための「宗易形の茶碗」(楽茶碗)があらわれる。また利休がなくなる前の年にあたる1590年(天正十八年)には竹の花入が使われたり、利休が禅を学んだ大徳寺の古渓宗陳の書を掛けていたのは、その茶の中心に禅の精神を置こうとしていたことを考えさせられる。(1*p115-116)

1591年(天正十九年)二月、千利休は切腹する。その原因については、はっきりしたことはわからない。おそらくいくつかの原因があったのだろう。茶の湯が新しい形となって広まっていくのに沿って言うならば、利休が考え出した茶の湯が、その時代よりも先をいく新しい考え方をもつものであったのも、一つの理由としてもよいかもしれない。(1*p126)

参考文献

  1. *谷端昭夫『よくわかる茶道の歴史』2007年 淡交社
  2. *http//www.omotesenke.jp/chanoyu/nenpyo/nenpyou_el_i.html
  3. *神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店
  4. *熊倉功夫『茶の湯の歴史千利休まで』1990年 朝日新聞社
  5. *永島福太郎『茶道文化論集』1982年 淡交社
  6. *成川武夫『千利休 茶の美学』1983年 玉川大学出版部
  7. *亀井高孝・三上次男・林健太郎・堀米庸三編『世界史年表・地図』 2007年13版 吉川弘文館
  8. *児玉幸多編『日本史年表・地図』2007年13版 吉川弘文館

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