栄西ってどんな人?
- ☆なにをしていた人なの?
- ★おぼうさんで、臨済宗をひらいた人です。
- ☆臨済宗ってなあに?
- ★仏教のなかに禅宗っていうのがあって、禅宗がまたいくつかにわかれていて、その中の一つに臨済宗があります。
- ☆いつどこでうまれたの?
- ★1141年におかやまでうまれました。
- ☆小さいときはどんな子どもだったの?
- ★8さいのときに『倶舎頌』っていう仏教のおしえをかいた本をよみました。11さいのときには安養寺というお寺に行って、仏教のべんきょうをしました。14さいのときには、かみのけをそって、おぼうさんになるためのべんきょうをしました。
- ☆大きくなってからは?
- ★1168年中国の宋という国へ行って、6ヶ月間べんきょうをしました。
- ☆どうして中国へ行ったの?
- ★中国の仏教は、日本の仏教にとってせんせいのようなものだからです。そのころの宋では、禅宗がとてもさかんだったのです。
- ☆中国からかえってきて、なにをしていたの?
- ★中国からかえって、しばらくしてから九州へいきました。15年間今津の誓願寺というところで、もういちど中国へ行くチャンスをねらっていました。
- ☆もういちど中国へ行けたの?
- ★1187年にもういちど中国に行けました。ほんとうはインドへ行きたかったのですが、ゆるされませんでした。しかたがないので、栄西は中国の天台山へ行って、万年寺の‘こあんえじょう’という禅宗のおぼうさんにあい、禅をおしえてもらいました。
- ☆いつ中国からかえってきたの?
- ★日本を出てから4年たって九州のひらどにかえってきました。かえるときに宋の人から絵をかいたかけものをもらいました。それがいまでもあるそうです。
- ☆ほかにも中国からもってかえったものはあるの?
- ★一かいめに行ったときか、二かいめに行ったときか、はっきりわからないのですが、お茶のたねをもってかえってきました。
- ☆中国からもってかえったお茶のたねはどうしたの?
- ★いまの福岡県と佐賀県のさかいにある‘せぶりやま’にうえました。
- ☆そのお茶は、そのあとどうしたの?
- ★たくさんの人にお茶をのんでもらおうと、お茶をのむことをひろめました。お茶だけではなく禅宗もひろめました。
- ☆なぜ、お茶をのむことをひろめたの?
- ★お茶をのむと、ながいきができるといわれていました。もうひとつは、禅を修行しているときにねむくなると、目がさめるからです。
- ☆禅宗はひろまったの?
- ★京都に行って禅をひろめようとしましたが、ほかの仏教の人たちが、やめさせようとしました。けれど、栄西は1198年に、‘禅のおしえは国をまもっていくものです’という本をだしました。その本のなまえは『興禅護国論』といいます。
- ★そして鎌倉に幕府があったので、鎌倉へ行って、二代目の将軍源頼家に禅宗をしんじてもらうようにしました。
- ☆幕府ってなあに?
- ★将軍が政治をするところです。そのころの幕府では、いろいろなあらそいがありました。
- ☆将軍ってなあに?
- ★将軍とはみんなをまとめていく人です。源頼家は源頼朝のつぎに将軍になったので二代目なのです。
- ☆栄西は幕府からたいせつにされていたの?
- ★源頼朝がなくなって、一年目の仏教の行事が1200年にありました。そのときに栄西が中心になってつとめました。
- ☆それからのお茶と禅宗は?
- ★1202年、栄西は京都にはじめて禅宗のおてらをたてて、禅宗をひろめていきました。そのお寺のなまえは建仁寺といいます。
- ★お茶は明恵というえらいおぼうさんに、お茶にはくすりのききめがあるからと、のむことをすすめ、お茶の実を‘とがのお’におくったのではないかとかんがえられています。そのご200年ぐらい‘とがのお’ではお茶をつくることがさかんになり、ここのお茶をほんとうのお茶、よそでつくったお茶は、お茶ではないといわれるほどだったそうです。
- ☆明恵とはどのようにしてしりあったの?
- ★栄西が建仁寺をたててから2年あとに、明恵は、京都の‘とがのお’にある高山寺がさびれてきたので、まえのようにたくさんの人に来てもらおうと、たびたび栄西のところへいって、はなしあいをしていました。
- ☆栄西は、ほかにはどんなことをしたの?
- ★お茶をつくることをひろめるために、またお茶にくすりのききめがあることをしってもらうために、1211年『喫茶養生記』という本を出しました。この本は日本で、はじめてお茶についてかかれた本です。
- ★1214年には源実朝の二日酔いに、酔いがさめるようにお茶をすすめ、お茶と『喫茶養生記』を実朝にさしあげたことが、『吾妻鏡』という本に出てきます。
- ☆『吾妻鏡』ってなあに?
- ★鎌倉時代のおわりのほうにできた本で、鎌倉幕府でだれがどんなことをして、どんなじけんがあったかなどを、にっきのようにかいたものです。
- ☆栄西がしんだのはいつ?
- ★1215年栄西は75さいでなくなりました。
参考文献
- 多賀宗隼著・日本歴史学会編『栄西』昭和40年 吉川弘文館
- http://ochakaido.com/rekisi/jinup/jinup01.htm
=参考文献 『茶のすべて』窪川雄介著 別冊太陽(‘73.AUTUMN)平凡社
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