学ぼう

総合芸術としての茶の湯

日本人の美意識を変えた「美の巨人」―――「侘び茶」の完成者・千 利休

 名著『茶の本』のなかで、岡倉天心は「いやしくも日本文化を研究せんとする者は、『茶の湯』の存在を無視することはできない」と言っていますが、まさしくその通りでしょう。というのは、日本文化の真髄、それはもちろん「万葉集」などの文学作品や数々の美術作品や遺跡のなかにしっかりと現れていることは言うまでもありませんが、日本人の日常の生活文化にかかわる意味での日本文化の真髄は、「茶の湯」、とりわけ千 利休以後の「侘び茶」と言われる「茶の湯」のなかにたっぷりと詰まっていると言ってよいからです。

 そもそも「茶の湯」というのは、私たち日本人が、日常生活のなかで、それこそ日常茶飯事である「お茶を点てて飲む」という行為を、一定の型にはめることによって「芸術」と言ってよいほどに洗練させた美的生活スタイルです。このスタイルの最初の完成を見たのが、室町幕府8代将軍、足利義政に代表される武家や貴族による東山の殿中書院といった広間での「書院茶」です。それは、例えば牧谿や梁楷などの正統的唐絵とか曜変や油滴といった天目茶碗のような中国伝来の名物道具であるいわゆる「唐物」のもつ美しさ、すなわち端正で典雅で、一点の曇りもない完璧な美しさが重視される美の世界でした。この美の世界とまったく反対の立場に立つのが、簡単に言って「侘び」の美意識です。この美意識のもとでの「茶の湯」は、完璧な美の世界としての「書院茶」を否定して、例えば「待庵」のようなたった二畳の狭くて暗い草庵茶室とか備前焼や信楽焼、更には楽焼のような素朴で一見して粗末に見える和物陶器による茶器を使っておこなう「侘び茶」へと転換することのなるのですが、それを完成させたのが、千 利休です。

 「書院茶」から「侘び茶」への転換は、村田珠光や武野紹?によって準備されていたとはいえ、利休は、それまでの唐物は美しいが和物は美しくないという唐物至上主義的な武家・貴族文化の美意識に対して、素朴で庶民の生活文化に密着した和物雑器の「侘び」た味わいの美しさを評価し、それを積極的に茶道具に取り立てたのです。岡倉天心は、「茶道にとって本質的なことは、『不完全なもの』を崇拝するにある」が、それは「故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させる」ものであって、それをするのが「数寄者」、すなわち「茶の湯」を愛する人であると言います。そのような和物道具は、天目茶碗にくらべれば相当いびつな形をしたアンバランスなものですが、このアンバランスで不完全な形にこそ新しい美としての「侘び」の味わい深さがあると主張したのが、利休だったのです。これは、当時としては、利休の大胆な挑戦であったと同時に、日本人の新しい美意識の発見でもあったと言えるでしょう。

 その後、近代日本では、大正末期(1925年頃)より、それまで美術の領域では見放されていたいわゆる「下手物」である日常の生活雑器に美しいものとしての価値を認めようとする「民芸運動」が、柳宗悦や河合寛次郎、浜田庄司、芹沢銈介らによって繰り広げられますが、そのような美意識は、言ってみれば既に300年も前に、利休の「侘び茶」の美意識によってその真価が認められていたものです。つまり、利休による新しい「侘び茶」の美意識の発見こそは、その後の日本人の美意識を決定したものであって、それは、完璧に美しくなくても、繊細な「侘び」た味わいを好む、今日の私たち日本人の生活文化のなかにも生き続けているものなのです。その意味では、利休こそ、日本人の繊細な美意識を創り出したまさしく「美の巨人」と言っても過言ではありませんし、日本の文化を研究しようとする人にとっては、絶対に無視することのできない最重要な存在なのです。

美のために生き、美に殉じた男―――千 利休

 「書院茶」から出て、新しい「侘び茶」の美意識の発見、それはまさしく千 利休という「美の巨人」の斬新でたぐいまれな創意と大胆なデザイン感覚によるものですが、その利休の美意識を今日まで伝えるのが、まず京都山崎妙喜庵の茶室「待庵」でしょう。わずか二畳のこの茶室「待庵」は、丸太の柱に荒土壁、柿葺きで切り妻の屋根といった一見して粗末な農家のような造りの建物ですが、室内の床の構成から窓の配置、天井の構成に到るまで、利休の「侘び」の美意識に基づく天才的なデザイン感覚が発揮された「草庵」茶室の傑作です。「草庵」茶室の対極に立つものとして、豪華趣味で派手好みの秀吉が作らせた「黄金の茶室」は有名ですが、「待庵」は、その秀吉のために、利休が自らの美意識を結集して建てたものです。この茶室の狭い「にじり口」から入るためには、秀吉も刀掛けに刀を預けて、身を屈して、丸腰で入り、床の花に敬意を払わねばならなかったはずです。つまり、「待庵」の極小空間では、たとえ秀吉であろうと、世俗的な身分の上下や貴賎の違いは意味を持たず、対等を旨としながら、謙譲と和敬の心をもって、利休と一体となって「侘び茶」の世界を共有することだけが求められたのです。

 もう一つ、利休の「侘び」の美意識に基づく造形が、「楽茶碗」です。利休が指導して瓦師の長次郎に焼かせた楽茶碗には、薄柿色の「赤楽」と黒っぽい「黒楽」とがあります。いずれも手づくねにより、多少のゆがみももっていて、なだらかなカーブとふくらみのある形で、土を感じさせる柔らかな触感によって、天目茶碗の完璧な美とは全く違った、素朴で自然な味わいがあります。秀吉は嫌ったものの、利休が好んだのは、「黒楽」の方ですが、それは、彼が「黒楽」茶碗の黒色と抹茶の黄緑色との対比がかもし出す独特の「侘び」た美しさを評価したからにほかなりません。

 それでは、利休をこのような「侘び茶」の完成へと向かわせたものは一体何だったのでしょうか。端的に言って、それは、利休の飽くことなき美の探求心、あるいは自分の全身全霊を美のために捧げるという使命感を持った生き方であったと言えるでしょう。利休の「利休」という居士号は、「利を休む」、すなわち「利益」とか「功利」といった利(もうけ)とは無縁であることを意味しますが、まさしくその通り、利休は世俗的な虚飾や物質的な享楽を拒否して、ただひたすら脱世俗的な美の世界に生きようとした人であったようです。天心は、「茶道」は「一種の唯美主義の宗教」であると言っていますが、利休は、さしずめ仏教において仏道を求める求道僧のように、「茶の湯」の道において美を求め続けた人であったかも知れません。その意味では、彼は「侘び茶」の美を求め続ける「求道的芸術家」であったと言えるでしょう。

 その利休は、周知の通り、彼が茶頭として深い関わりを持った秀吉によって切腹を命じられ、悲劇的な最期をとげます。秀吉が利休を死に追いやった理由としてさまざまな推測がなされていますが、私は、秀吉のわがままで派手好みで豪華主義の「茶の湯」に対して、利休が、自らで死を選ぶことによって、「侘び茶」の正当性を堂々と主張したものと考えてよいと思います。秀吉の茶頭といえども、利休は、元は堺の一介の商人です。ところが、町年寄である会合衆が自治権をもつ有力な新興都市堺の誇り高い商人として利休は、権威には容易に屈しない剛直で奔放な気概を持っていたようです。例の有名な「朝顔の茶会」は、秀吉と利休の美意識の相違に基づく対立を象徴的に示すものでしょう。その意味でも、利休の切腹は、決して秀吉に命じられたからではなくて、自らの死を賭けて「侘び茶」の美を守ったのであり、利休は、言ってみれば、「侘び茶」の美に殉じたのです。

「一座建立」:桃山のプレーイング・アート・ディレクター―――千 利休

 千 利休の「侘び茶」においては、まさしく彼独特の「侘びの美意識」を反映した茶庭、「待庵」のような茶室、「楽茶碗」のような茶器、茶道具等々の造形美術が用いられますが、それらを用いることが本来の目的ではありません。というのは、そもそも「茶の湯」の目的は「茶会」であり、それは茶席に集う亭主と客との美しい心の交流を作り上げることを目指すものだからです。その限りで、それらの造形美術も、言ってみれば茶会のための道具であり手段です。つまり、茶室や茶道具などの造形美術は、亭主である利休の点前とそれに対応する客の作法とを軸としながら、あくまで「茶会」という美的なコミュニケーションの場で機能するべきものなのです。

 逆に考えれば、茶会を催す亭主である利休は、自らでこの茶席のために選んだ造形美術を駆使して、自らの点前を中心にして、寄り合った客を巻き込みながら、心を一つにした人間的な心の通い合う美しい環境、すなわち「一味同心」の茶境を創り出す、つまり「一座建立」するべく、自らも演じながら演出する演出家であるということになります。「茶の湯は、茶、花卉、絵画等を主題に仕組まれた即興劇である」と言ったのは岡倉天心ですが、天心が「即興劇」と言ったのは、「茶の湯」の一回性を考えてのことであったと思われます。「茶会」というのは、ある日、ある時のある茶席での特定の個人と個人との、特定の状況における出会いであり、それは一回限りの「一座」として、亭主は客を巻き込みながら「即興劇」を演じているのです。その意味では、「茶会」をメイン・イヴェントとする「茶の湯」は、「即興劇」の上演と同様に、一回限りの「パフォーミング・アート」なのです。利休が催す「茶会」というパフォーマンスの場では、茶庭や茶室は舞台装置ですし、茶器、茶道具はまさしく大道具、小道具類です。利休は、それらを自らの「侘び」の美意識にしたがって駆使することによって、客との交わりの「一座」としての「茶会」を建立しようとする亭主、つまり言ってみれば「即興劇」の出演者であると同時に芸術監督、つまり「プレーイング・アート・ディレクター」なのです。そのディレクター、利休にしても、うまく道具類を組み合わせて一回限りの「茶会」を成功させるのは並大抵のことではなかったと言われています。

 しかも、この「茶会」という「即興劇」の上演に動員されているのは、茶庭や茶花といった「園芸」、茶室という「建築」から、絵画や墨跡の掛け物といった「美術」、釜や茶入や茶碗や水差や花入といった「工芸」をへて、本来「茶会」は清寂を楽しむものですが、茶釜にたぎる湯の音や「茶会」の後座の席入りの合図の銅鑼の音などの「音楽」的なものまで、芸術を構成する諸ジャンルのほぼすべてなのです。それに、普通は芸術のジャンルには入れませんが、ここに懐石料理としての「料理」が加わりますと、「茶会」とは、実に生活文化の領域までを含みながら、すべての芸術ジャンルを総動員した一大「総合芸術」であるということになります。そして、それら「園芸」、「建築」から「音楽」にいたる芸術ジャンルのそれぞれが、あくまで「茶会」という「一味同心」の「一座建立」のために、それぞれの立場で精一杯貢献しているのは言うまでもありませんし、それら諸芸術ジャンルを「総合的」に生かそうとして演じ、演出しているのが、「プレーイング・アート・ディレクター」たる「茶会」の亭主なのです。つまり、「侘び茶」という新しい「茶の湯」の世界で、自ら「プレーイング・アート・ディレクター」として、「パフォーミング・アート」のシステムである総合芸術「茶の湯」を完成したのが、ほかならぬ「美の巨人」利休だったのです。

(三浦信一郎)

このウィンドウを閉じる