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和菓子について

和菓子のあゆみ

日本でずっと昔の人がたべていたものは、おもに草や木の実であったといわれている。山や野にはえているつる草の実や、毒のない実をとってたべていた。その後、やまもも、栗、柿、桃、梅が、インド、中国、朝鮮などからつたわってきて、日本で植えられるようになった。(13*p34)

むかし食べていた木の実やくだものは、食事であっておやつではなかった。お茶菓子は室町時代まではまだできていない。(13*p35)

中国の唐から伝わったお菓子がいっぱいあって、今の日本のお菓子に大きくむすびついている。(13*p43)

奈良時代孝謙天皇のときに、中国の唐の僧である鑑真が日本に来て黒砂糖をさしあげたといわれている。そのすこしあとの804年に、最澄、空海というお坊さんが唐に行って、亀の甲せんべいをたべ、あっさりとしていておいしかったので、日本に帰ってきて京都の和三郎という人に作り方をつたえた。これを「亀の甲煎餅」と名づけたのがせんべいのはじまりとなっている。(13*p43)

室町時代の中頃の東山時代には茶の湯のかたちがあらわれる。茶の湯がはやるとお茶菓子が生れてくる。禅宗のお坊さんはお茶のお菓子のことを点心、または茶の子といっていた。点心には、おもに羊かんとまんじゅうが使われたが、羊かんは、今のものとはすこし中みやかたちがちがうようである。(13*p43)

織田信長や豊臣秀吉の時代は、利休が茶道を大きく成功させていった時代である。利休のころのお茶菓子は『利休茶会記』に出てくるように、フノヤキ、ざくろ、焼き栗、いりかや、こぶ、しいたけなど、いまのお菓子類とはちがうものであった。(13*p45)

1412年にポルトガル人が日本にきた。そして1549年ザビエルが鹿児島にやってきて、キリスト教をひろめた。1571年にはオランダの船が長崎にきて、オランダとだけ貿易がゆるされていた。そのオランダ人から伝わったお菓子を南蛮菓子といった。そのなかには、カステラ、ボーロ、金平糖、有平糖、カルメラ、玉子そうめん、ビスケット、パンなど今でもよく知られているものがあった。(13*p46)

江戸時代になると、政治の中心は江戸にうつり、江戸文化がさかんになり、お菓子も京都に負けないくらいのものができていった。茶道によって発達した京都のお菓子は、応仁の乱で京都がおとろえても、お菓子は見て美しいものが次から次へとできていった。そしてその美しいおかしを守るため、248軒のお菓子やさんをおおやけにみとめるきまりをつくった。(13*p50)

八代将軍徳川吉宗が、砂糖をつくることに力を入れて、長崎にいる中国人につくりかたをたずね、今の沖縄から苗木をとりよせて江戸に植えたが一部しか成功しなかった。このようにすぐには砂糖が一般に使われるようにならなかったが、和菓子をつくることはすすんでいった。(13*p51)

明治以後、外国との貿易がさかんになって洋菓子をはじめる店もできた。さとうも外国から入るようになり、たくさん砂糖をつかえるようになると、小さなお菓子屋さんがどんどんふえていった。(13*p51)

昭和の時代になって戦争がおこると、つぎつぎとお菓子は消えていき、また利休のころのように甘くはなかった。柿や栗がお茶菓子になったりしていたので、むかしのお茶菓子のようであったのかもしれない。(13*p52)

お茶会のお菓子

お茶菓子を入れる器とお菓子のバランスが大事である。お茶菓子はこりすぎないで自然なものがよく、お茶の味を消すようなものではいけない。お茶菓子にもお茶の心が大切である。(13*p55)

参考文献

  • 13. *鈴木宗康『茶の菓子』昭和54年 淡交社

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